外側の世界に向いていた意識が直面期を経て内側に向くと、痛み回避に突き動かされていたときには気づかなかった、本当は何が内側で”ある”はずだと思っているのかという、自分の中にある真実に繋がる時期がやってきます。

自分の中に「あること」すべてを感じて自己理解を重ね、気づきを深めていきます。
欠損期で作った、ある・ない、いい・悪いという二元的見方で自分の内側で分離していた(切り捨てていた)自分を取り戻し、「あるものすべてがただある」と内側で判別や評価をやめて自分の器にある分離を統合していきいます。
その統合した器の中に、本当に自分がもたらしたい世界が何だったのか、という世界があるのです。

自己統合期では、内側に意識を向けることで、自分の内側にあることすべてを感じ、体験したことのない自分を体験すること通じて、自分のもたらしたい世界が自分の内側にあることを思い出します。
 
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自己統合期ストーリー

 
「自分はどう生きたいのか?」
「自分は何が欲しいのか?」
途方にくれていたとき、ある知人から講座を紹介された。
その講座は、偶然にも僕の経営コンサルタント時代の元同僚が開催していた講座で、どんな内容かよくわからなかったが、何かに導かれるように僕はその講座に参加することにした。

その講座に参加して間もなく、元同僚であるファシリテーターに
「考えないでいいから、感じて。」
と言われた。そのときの僕は”感じて”の意味がわからず、思わず
「はぁ?」
と言ったのを覚えている。すると、
「逃げないで。」
という言葉が返ってきた。

感性を麻痺させていた僕には”感じる”ということの意味がわからなかった。
まるで”感じる”という概念にはじめて出会ったかのように、僕の中には拒絶に近い複雑な反応が渦を巻いていた。
自分の思いをないものとし、覆い隠して生きてきたからこそとても怖かったのだと思う。
パンドラの箱を開けるにも等しい恐怖があったが、「感じて。」と言われたことをきっかけに少しずつ手探りで”感じる”ということを、意図的に実践していった。
過去の遠いどこかに置いてきた本当の自分なんてものがいるとすれば、
”感じることを取り戻す”というのは、彼にずっと声をかけ「こっちだよ」と手を引っ張り続けるような作業だ。
それを支えてくれてのは、僕に何があってもそれを受容し、それを映し出してくれた仲間の存在だった。

この”感じる”によって、僕は切り捨てていた自分を取り戻してくことになる。
”感じる”には、いい・悪いという評価・判断が入り込む余地がない。ただ、感じることがあるだけだ。
感じると評価・判断が入らないから、自分の中でないことにしてきた思いや押し殺していたさまざな感情、
「こんな自分勝手なこと考えちゃいけない」
「人から嫌われるのが恐い」
「さみしい…」
「ありのままの自分では家族から見放されるって思っている」…
などを、ただ感じて、自分の中に”あること”として認められるようになった。
感じることで、自分の内側に何があったとしても、自分にある”真実”としてただあると認めるようになったのだ。
こんな自分はダメだと思っていた僕が、自分を愛することができるようなったのだ。

そして、自分の内側にあることすべてを感じると
「自分はどう生きたいのか?」
「自分は何が欲しいのか?」
がわかったのだ。

「ありのままの自分を愛する」
「自分の真実と共にある」
「あることすべてを愛する無条件の愛」

自分の内側にあることすべてを感じることで、僕は自分のもたらしたい世界が自分の内側にあることに気づいた。
自分の内側にあるのはすべてが愛だった。
僕は、無条件の愛が欲しかったのだ。

人生というのは、自分が失った本当に大切したいと願いを、諦めることなく見出してあげる旅路なのだ。

 
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