人生には、喜びを感じる体験もあれば、悲しさや二度と味わいたくないつらい痛みを伴う体験もあります。

「なんでこんなことが私の人生で起きてしまったか?」
「こんな体験を二度としないためにどうしたらいいのか?」

私たちは、人生に起きる痛みや苦痛を伴う出来事を、「起きなければいいのに起きてしまった」出来事として捉え、その体験の記憶や痛みを抱えながら、それが再来することを無意識に恐れ、それに影響されて生きています。

「すべての体験は進化に必要なプロセスの一環として起きている。」

一人ひとりの人生は、その人生で起きた出来事とその体験から織り成されています。
そこから浮かび上がるのは、その人が担う唯一無二の願い・人生の目的です。
人生における体験という縦糸は、その人生に一貫して流れている人生の目的という横糸と交わって織り成されることで、彩り豊かな美しいタペストリー(織物)のようにすでに美しく設計されています。
そして、その人生を生きるために、私たちはすべての体験を選んでいるのです。その観点から人生を捉え直した時、すべての人の人生がどれほど美しく織り成されているのか、初めて見えてくるのです。

適合期


人間は、肉体的に分離してこの世界に生まれ、私対世界という世界との分離が起こります。肉体的に分離をしているから、そこに全てあるはずだった世界に、何かが欠けている、という感覚「痛み」がやってきます。本当は、この世界は、愛に溢れていて、繋がりに溢れていて、全てが満たされているはずなのに”ない”。この”あるはずなのにない”痛みの体験を通して、“何かがない”という世界が現れます。これが、肉体的に分離されている個体として自我をもつ人間の宿命だと思っています。

人間は、生まれてから前半の何十年かを、“何かがない”という世界を生きます。世界にあるはずのものがない。愛があるはずなのにない、つながりがあるはずなのにない。ないという世界の体験が、人間の痛みを生んでいます。欠損期ではこの痛みを避ける回避行動を無自覚に繰り返すことになります。それでも、現実で痛みの体験を避けることはできず、やっぱり”ない”という体験が繰り返されるのです。

その人の唯一無二のこの痛みの裏側に、その人が、本当は”ある”はずだと思って生まれてきたのは何か、というその人固有の想いが紐づいています。

適合期ストーリー

僕は小さい頃の記憶がない。ということは、楽しすぎて刹那だったか、思い出したくなくて記憶の深いところに重い蓋をしていたら、いつの間にか本当に思い出せなくなってしまったかのどちらかだと思う。だから、母から「よく笑う子だったよ。」と言われた時は少しホッとした。
ずっと、なにか言いようのない寂しさを抱えていた。家族や友人とさえ本当につながれていない寂しさ。人との関係性が希薄な感覚。「ありのままの自分では受け入れられない」「僕はわかってもらえない」、だから「真実が分かち合われない」という真実が欠損した世界。

微かな記憶の糸を手繰り寄せていくと、わりと何事にも一生懸命にやるということが苦ではない”いい子”だったと思う。小学生の頃から、勉強はもちろん、校庭を走らされるみたいな他の子供が嫌がりそうなことでもきちんとやっていた。
僕には姉が1人いて、たまに親を困らせる彼女を反面教師に、僕は親に怒られないような立ち振る舞いが板についていた。
その頃には、「僕は何かいいことをすることから愛される」って思っていたんだと思う。

そういった”いい子”は大人からは愛されるけど、同じ年頃の子供からは愛されない。
万人に愛されるというものほど、手に届かない願いはない。
だから、クラスメイトの子から、
「気張り屋さん」
とからかい半分で言われたことは必然だったのではないかと今は思える。
しかしまだ純朴で、純朴故にまっすぐに受け止めてしまう子供だった僕は、この「気張り屋さん」という言葉を受けて湧き上がった恥ずかしさという感情を抑えられなかった。
自分はただちゃんと一生懸命にやっただけなのに・・・と、それは理解されないものなんだと失意に暮れて家に帰ったことを今でも覚えている。
この体験を、「僕がありのままの姿を見せると、人から”わかってもらえない”」という痛みとして記憶したのだ。

中学生になった僕も、引き続き真面目で”いい子”の優等生だった。人はそうそう簡単には変わらないけど、友達とはもう少しうまくやろうとしてた。
自分のやりたことや言いたいことを我慢したり、力を隠しでも、友達に合わせることで友達とつながろうとした。
でも、自分を抑圧している感覚があって、友達と本当につながっていると感じられなかったし、学校でもなんとなくみんなの輪から自分が外れているように感じていた。
ある時、遊びたいという友達に合わせなければならなくて習い事に行けなくなって困っていた僕は、それを母に相談した。ところが、母は僕をわかってくれなくて、僕を正すような反応が返ってきた。
僕の寂しさをわかってくれると思っていた母の反応は、僕の悲しみを大きな怒りに変えた。
「僕のため」と言いながら僕を正そうとする母の言葉を聞けば聞くほど、母が本当に僕のために言っているではなく、母の都合で言われていると感じられて怒りが込み上げてきた。
僕は怒りまかせ、自分の中に抑圧されていた寂しさと悲しみを声荒げ母にぶつけた。
「うそつき!」
この「うそつき」という言葉は、幼少期から私が両親に対して抱いていたつながりの希薄感から放った言葉だった。
私の両親は、2人共”いい母”・”いい父”であり、僕にも姉にも深く愛情を注いでくれていた。しかし、それが僕にはなんだか自分を我慢しているように見えていたのだ。それは僕のために我慢をしていると言われているようだった。そして、同じように自分を我慢している自分に苛立ち、我慢できなくったのだった。
子供の目というのは偏見というメガネをかけることなく物事をみる。
だから、真実を見抜く。でも、真実というのは不快なものだ。
振り返ってみると、当時の両親は”本当の想いを我慢してでも子供達のためにしてあげる”ということが愛情だと信じていたのだと思う。
しかし、それが僕には両親の本当の想いと深く繋がれていないという、希薄感に繋がっていました。
恐らく、僕が放ったこの「うそつき!」という言葉は母にとってはずっと目を背けてきた不快な真実だったのだ。
その晩、母は一晩中泣き叫んでいた。母のそんな姿を見たのは初めてで、僕は母を傷つけてしまった罪悪感を感じ呆然としていた。
大人が抑え込んでいた真実を子供がケアすることなんてできるはずもない。
見破ることはできても見破った後のことまで子供に期待するのは酷な話で、「僕が本当の想いを言っことで母を深く傷つけた」と僕は自分を責めた。
今でも、「自分の心の中で本当に思っていることを外に出してしまうと、人を深く傷つけてしまう」という影が僕ともにある。

それからは、「僕はありのままでは受け入れられない」「自分の内側にある本当の想いは人にはわかってもらえない」という痛みを避けるために、高校生/大学生になっても自分の本当の想いに蓋をして、外の世界の価値観へ自分を合わせにいくということをひたすら繰り返していた。
その結果、周囲が思う”イケてる自分”を演出するのがどんどん上手になり、名門と言われる大学に入り、経営コンサルタントして職を得た。
当時は感情を表現するのが恥ずかしいという気持ちが強く、自分はロジカルな人間で感情に振り回されるようなことはないと自負していた。
今なら「そんなの人間じゃないと」とツッコミたくなるが、当時はロジカルで賢い自分というものに大きな自信を持っていたし、そういう自分になりたいとさえ思っていた。
期待に応える優秀な自分であることには絶対的な自信があったし、努力をして能力を上げ成果を出すことで人からは評価をされていた。
でも、どれだけうまくいっていても、何か満たされないという寂しさにも似た想いがずっとあった。

自分では、なりたい自分になっていたつもりだったけど、結局は「僕はありのままでは受け入れられない」「自分の内側にある本当の想いは人にはわかってもらえない」という痛みを避けるために、人からの期待に応えようとしていただけだった。
本当の自分を隠して、我慢をして、自分を偽ることで人に受け入れられようとばかりしていた。だから、ありのままの自分が受け入れられることはなく、真実が分かち合われることで人とつながれることはなかった。

直面期

直面期は、欠損の時代に、自分が痛みを回避するためにやりつくしてきた回避行動から生み出される現実が、自分が望んでいる世界ではない、ということに直面する時期。
もうこのまま今の生き方を続けても限界だ、と感じる色々な事象が、この直面期に起こります。

無自覚に創り出されたそれまで人生を動かしていた痛み回避のシステムが限界に近づいていき、外側で不本意なことや不快なことが起きます。それを無視したり必要な気づきが起きないと、何かが破綻する、崩壊する、病気になる、など危機的な出来事へとエスカレートしていき、自分の内面に向き合いざるを得なくなるところまで追い込まれていきます。

一見すると人生の危機のように感じる時期ですが、内的葛藤が起こり、ひたすら外側の世界に向いていた意識が自分の内側に向く大事な転機の時期です。

直面期ストーリー

社会人としてバリバリと経営コンサルタントとして働く、自分の成長やクライアントからの評価も感じていた。そんな順風満帆の中、僕は26歳で結婚した。
妻の家は、代々続く大きなビジネスを経営しており、結婚後しばらくして、経営コンサルタントを辞め、義父である妻の父がオーナーとして経営する会社に転職し、新規事業の立ち上げに奔走した。
初めは跡取り候補として見られたこともあり、みんな僕に注目をし、協力もしてくれた。
スタートアップ時はビジネスパートナーとの契約不備など大きなチャレンジがあったが、必死の努力で事業はなんとか採算ベースに乗りそうになってきた。
僕はこれでなんとかこの会社でも認められると思っていたが、結果はそうではなかった。

事業を立ち上げる中で、義父との価値観の違いが鮮明になっていた。
「結果を出せばみんな認めてくる、みんなわかってくれる」と義父に楯突くことも厭わず結果を出そうと必死にやっていたが、どんなに結果が出てもだれも僕を認めても、わかってもくれなかった。

今考えればオーナー企業では普通のことだが、この会社では、認められるとは、社長に認めらえることだったのだ。
僕はたった一人の力でそのシステムに抗い、みんなにわかってもらおうと踠いていた。でも、個人はシステムに勝てない。そんなことさえわからないくらい自信過剰で無知だった。
そして、気がつけば僕は会社で孤立していた。

気がつけば、僕はみんなにとって厄介者になっていた。厄介で関わり合いたくない人として見られ、だれも僕を人間として理解しようとしてはくれなかった。
新規事業立ち上げ後、グループ会社の中核事業の取締役に就任することなるが状況は変わらないどころか悪化をしていった。

「会社のために」となんとか自分を抑圧して従おうとしても、どうしてもそれができなかった。一人ひとりの人間が人として尊重されず、会社というシステムが優先されているように感じ、どうしても従うことができなかった。外の世界の価値観への適合を繰り返した私が出会った、唯一合わせられないものが義父の会社だというのは皮肉な話だ。

しかし、同時にこの体験が、人が人として尊重されるということが、私の本当に譲れないものであると教えてくれた体験であったとも思える。
当然のように、会社の考えに迎合できない自分の社内評価は目に見えて堕ちていき、僕に跡取りを期待をする人はいなくなった。
評価を上げることは難しいけれど、下げることは簡単だ。
堕ちていくのには努力も何も必要ないのだから。

それでも、僕は会社を辞めなかった。
結婚をして二人の息子が生まれ妻の両親と同居をしていた僕にとって、会社を辞めることは幸せな家族を壊すことだった。
妻も会社経営に関わり、その会社の業績は順調に推移していた。子供も元気に成長をしている中、僕が会社を辞めることは、自分勝手に幸せな家族を壊すことになると思っていた。
だから、だれにも人間として見られない悲しみとだれにもわかられない絶望を押し殺し、
「僕が自分勝手に刃向かっているだけで、僕がおかしいだけじゃないか」
「僕は家族の幸せのために生きればいい」
と自分を責め、自分を麻痺させ、会社にい続け、家族を支えるしかなかった。
僕がそんな状態であることは、妻を悲しい思いにさせるし、自分の親にも申し訳ないと思い、僕のその苦しみはだれにも明かされることもなかった。
妻には、自分のせいでこんなさせていると思わせたくなかった。
自分の親には、僕は幸せな結婚生活を送っていると信じさせたかった。

会社にい続け、家族を支えるしかなかった。それは本当だっただろうか。
それは本当ではない。僕は、自分を犠牲にしてでも会社に居場所をつくる選択していたのだ。本当には、僕は「家族から見放されしまう」ことが恐かっだだけだ。その痛みを恐れ、無自覚に「家族のために」と自己犠牲と滅私奉公を正当化していただけだ。そして、妻や自分の親を不快にするという自分の不快を恐れて、自分のありのままの姿を明かすことさえできなかったのだ。
僕を動かしていたのは「ありのままの自分では受け入れられない」「僕はわかってもらえない」という痛みの回避。「家族だけには受け入れられて、わかってもらわなくてはならない」という恐れを感じないために、「家族のため」と自己犠牲と滅私奉公を正当化していたのだ。

僕は、自己犠牲と滅私奉公で会社にい続け、家族を支え、ありのままの姿を隠すほど「ありのままの自分では受け入れられない」「僕は誰にもわかってもらえない」という虚しさと絶望ばかりが増していったのだった。

そして、この極端な自己犠牲と滅私奉公は頚椎の重度ヘルニアが発症するまで続いた。これまで抑え込んできたものが溢れ出て体に発現したのだ。
もう、これまでのように生きるのは限界だ。
自分の中でそれだけは、はっきりと理解できていた。
心と体は連動し合うものだし、どちらかが不調であればそれはもう一方に影響する。
そんな当たり前のことに、私は日常生活が困難になるほど身体に支障をきたすまで気づかなかった。
幸い頚椎ヘルニアも様々治療で軽減されたこともあり、
「もう、我慢をやめる」
「自分の人生を生きたい」
と自分で何か行動を起こそうという気にはなっていた。

「自分はどう生きたいのか?」
「自分は何が欲しいのか?」
そんな問いが浮かぶものの、その答えは考えてもわからず、途方にくれていた。

自己統合期

外側の世界に向いていた意識が直面期を経て内側に向くと、痛み回避に突き動かされていたときには気づかなかった、本当は何が内側で”ある”はずだと思っているのかという、自分の中にある真実に繋がる時期がやってきます。

自分の中に「あること」すべてを感じて自己理解を重ね、気づきを深めていきます。
欠損期で作った、ある・ない、いい・悪いという二元的見方で自分の内側で分離していた(切り捨てていた)自分を取り戻し、「あるものすべてがただある」と内側で判別や評価をやめて自分の器にある分離を統合していきいます。
その統合した器の中に、本当に自分がもたらしたい世界が何だったのか、という世界があるのです。

自己統合期では、内側に意識を向けることで、自分の内側にあることすべてを感じ、体験したことのない自分を体験すること通じて、自分のもたらしたい世界が自分の内側にあることを思い出します。

自己統合期ストーリー

「自分はどう生きたいのか?」
「自分は何が欲しいのか?」
途方にくれていたとき、ある知人から講座を紹介された。
その講座は、偶然にも僕の経営コンサルタント時代の元同僚が開催していた講座で、どんな内容かよくわからなかったが、何かに導かれるように僕はその講座に参加することにした。

その講座に参加して間もなく、元同僚であるファシリテーターに
「考えないでいいから、感じて。」
と言われた。そのときの僕は”感じて”の意味がわからず、思わず
「はぁ?」
と言ったのを覚えている。すると、
「逃げないで。」
という言葉が返ってきた。

感性を麻痺させていた僕には”感じる”ということの意味がわからなかった。
まるで”感じる”という概念にはじめて出会ったかのように、僕の中には拒絶に近い複雑な反応が渦を巻いていた。
自分の思いをないものとし、覆い隠して生きてきたからこそとても怖かったのだと思う。
パンドラの箱を開けるにも等しい恐怖があったが、「感じて。」と言われたことをきっかけに少しずつ手探りで”感じる”ということを、意図的に実践していった。
過去の遠いどこかに置いてきた本当の自分なんてものがいるとすれば、
”感じることを取り戻す”というのは、彼にずっと声をかけ「こっちだよ」と手を引っ張り続けるような作業だ。
それを支えてくれてのは、僕に何があってもそれを受容し、それを映し出してくれた仲間の存在だった。

この”感じる”によって、僕は切り捨てていた自分を取り戻してくことになる。
”感じる”には、いい・悪いという評価・判断が入り込む余地がない。ただ、感じることがあるだけだ。
感じると評価・判断が入らないから、自分の中でないことにしてきた思いや押し殺していたさまざな感情、
「こんな自分勝手なこと考えちゃいけない」
「人から嫌われるのが恐い」
「さみしい…」
「ありのままの自分では家族から見放されるって思っている」…
などを、ただ感じて、自分の中に”あること”として認められるようになった。
感じることで、自分の内側に何があったとしても、自分にある”真実”としてただあると認めるようになったのだ。
こんな自分はダメだと思っていた僕が、自分を愛することができるようなったのだ。

そして、自分の内側にあることすべてを感じると
「自分はどう生きたいのか?」
「自分は何が欲しいのか?」
がわかったのだ。

「ありのままの自分を愛する」
「自分の真実と共にある」
「あることすべてを愛する無条件の愛」

自分の内側にあることすべてを感じることで、僕は自分のもたらしたい世界が自分の内側にあることに気づいた。
自分の内側にあるのはすべてが愛だった。
僕は、無条件の愛が欲しかったのだ。

人生というのは、自分が失った本当に大切したいと願いを、諦めることなく見出してあげる旅路なのだ。

体現期

自分の内側にすでにある自分のもたらしたい世界、そこから外側の世界を自分が生きるということ。
自分の内側にある自分のもたらしたい世界で自分が在ること。そのある世界がその人の器の中で体現されていると、その人が存在しているだけで、その世界は確かに現実にある、と皆が感じられるようになります。

他者・世界に対する要求や期待を手放し、自分で求めている世界は既に内側にあることを自覚し、望んでいる世界・生きたい世界を自分の人生で生きることで、自己完結します。
自己統合期の理解「自分はどう在りたいか?」「自分が諦めきれないこと、命をかけたいことは何か?」をとにかく真に受けて、自分は自分の人生を生きると意思で決め、まずは自分が望む世界を自分が体現します。

体現期ストーリー

「ありのままの自分を愛する」
「自分の真実と共にある」
「あることすべてを愛する無条件の愛」

これが自分のもたらしたい世界だ。
それが僕がわかったことだった。
それを自分の内側で感じるとただ満たされる感覚があった。それは、確かに僕の内側にあった。

それを外側の世界で体験するかどうかは、自分で選ぶだけだ。
「そんなのは所詮理想だ」、「現実にはそんなものはない」と、あきらめるのは簡単だ。
でも、どうにもあきらめられない衝動が僕の内側にあった。
それは、確かにある。
そしては、僕はそれを生きるんだ。
自分の意思だけではない、何が導かれるような衝動で僕はそれを選んだ。
そんなことできるのかいう恐れや不安はなぜかあまり感じなかった。
周りがどんな環境であったとしても、僕はそれを生きる、それを体現する。
そう決めたら後は信じて、それを生きることだった。

会社の中での僕の立場はあいかわらずで、その春も厄介者を扱うような辞令が僕に降りたところだった。
僕は、だれも面倒を見ることができなくなった、バラバラになりかけている20名ほどのチームを新たにマネジメントする命を受けた。
僕は何をしたらいいかは考えなかった。とにかく「自分の真実と共にあろう」、そう思っていた。
自分にある真実を語り、相手にあることすべてを受け容れ、そしてそこにある真実から行動する。
その真実が会社にとって不都合だとしても、自分にとって受け容れ難いものだとしても、真実をあることとして認め、そこから相手と関わる。
それは、相手を尊重することでもあったが、何よりも自分を尊重することでもあった。
それをすることで、僕は自分が満たされていることを感じられた。
真実を分かち合うことで、相手と本当に繋がれた感覚があった。
真実をただあると感じること、それを分かち合うこと。それが愛だった。
それは、概念として自分の内側にあるのではなく、確かに現実としてあった。

僕がそれを生きていることで、チームのメンバーが変わっていくのが感じられた。
「ありのままの自分でいい」
そうやって感じているメンバーが増えていった。
ありのままの自分ができること表現する。そうやって、行動することで一人ひとりが安心して自分を表現し、結果を残していた。そしてお互いを認め、安心と信頼がチームに醸成されていた。

僕のもたらしたい世界、「あることすべてを愛する無条件の愛」の世界を僕は体験していた。
それを体験し、感じれば感じるほど、僕はこの世界を創り出すことに自分を懸けたいと想うようになっていた。
自分はここにいても自分は自分のもたらしたい世界を感じて生きていられる。
でも、それだけでは満たされない衝動があった。

「ありのままの自分を愛する」
「自分の真実と共にある」
「あることすべてを愛する無条件の愛」
僕が人生の前半で、このすべてを完全に欠損させて、その喪失を痛みとして体験したのは、僕がこれをこの世界にもたらすことを選んできたからではないか。

僕はそれをするために会社を辞める決心をしていた。
そして、その真実を語ることは、だれにとっても不都合だった。
妻、子供、僕の両親、妻の両親。これまで僕が自分の真実を語ってこなかっただれにとっても、僕の決断は不都合な真実だった。

それでも僕はそれを生きること選んだ。
それが自分を愛することであり、真実を分かち合うことが本当の愛だから。

自己表現期

体現期に自分の内側に創り出した望む世界から、それを外側の世界へ不安や怖れを越えて分かち合うということ、自己表現することで外側に望む世界が創り出され、その世界が現実として身近な範囲から創造されていきます。
その生き方・人生から表現されたものが、自然と他の人の気づきや可能性となり、光として拡がっていきます。
この時期は自分の内側にある真実、ありのままの状態で自由に自分を表現できるようになります。すべきことはなにもなく、人にどう見られるか、どう思われるかという不安よりも、自分の内側にあるものを分かち合いたいという情熱から唯一無二の自己表現を追求していきます。

自己表現期ストーリー

僕が真実を語り、真実から生きるようになると周りも変わり始めた。
真実は真実を生む。それが原理だ。

僕が自分を生きると、まわりも自分を生きるようなる。
真実にあってはならないものは何もない。ただあるだけだ。
真実から生きると起きてはいけないことは何もない。ただ、起きるだけだ。
一見、困難で起きなかった方がよかったと思えることでも、すべては真実から起きている限り愛なのだ。

僕は会社を辞めた。
そして、僕を真実に目覚めさせたきっかけとなった元同僚と一緒に、僕自身が自分の生きる目的を思い出せてくれた内的統合のテクノロジーを伝えている。

「ありのままの自分を愛する」
「自分の真実と共にある」
「あることすべてを愛する無条件の愛」

僕は無条件の自己愛から生きている。