直面期は、欠損の時代に、自分が痛みを回避するためにやりつくしてきた回避行動から生み出される現実が、自分が望んでいる世界ではない、ということに直面する時期。
もうこのまま今の生き方を続けても限界だ、と感じる色々な事象が、この直面期に起こります。

無自覚に創り出されたそれまで人生を動かしていた痛み回避のシステムが限界に近づいていき、外側で不本意なことや不快なことが起きます。それを無視したり必要な気づきが起きないと、何かが破綻する、崩壊する、病気になる、など危機的な出来事へとエスカレートしていき、自分の内面に向き合いざるを得なくなるところまで追い込まれていきます。

一見すると人生の危機のように感じる時期ですが、内的葛藤が起こり、ひたすら外側の世界に向いていた意識が自分の内側に向く大事な転機の時期です。
 

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直面期ストーリー

 
社会人としてバリバリと経営コンサルタントとして働く、自分の成長やクライアントからの評価も感じていた。そんな順風満帆の中、僕は26歳で結婚した。
妻の家は、代々続く大きなビジネスを経営しており、結婚後しばらくして、経営コンサルタントを辞め、義父である妻の父がオーナーとして経営する会社に転職し、新規事業の立ち上げに奔走した。
初めは跡取り候補として見られたこともあり、みんな僕に注目をし、協力もしてくれた。
スタートアップ時はビジネスパートナーとの契約不備など大きなチャレンジがあったが、必死の努力で事業はなんとか採算ベースに乗りそうになってきた。
僕はこれでなんとかこの会社でも認められると思っていたが、結果はそうではなかった。

事業を立ち上げる中で、義父との価値観の違いが鮮明になっていた。
「結果を出せばみんな認めてくる、みんなわかってくれる」と義父に楯突くことも厭わず結果を出そうと必死にやっていたが、どんなに結果が出てもだれも僕を認めても、わかってもくれなかった。

今考えればオーナー企業では普通のことだが、この会社では、認められるとは、社長に認めらえることだったのだ。
僕はたった一人の力でそのシステムに抗い、みんなにわかってもらおうと踠いていた。でも、個人はシステムに勝てない。そんなことさえわからないくらい自信過剰で無知だった。
そして、気がつけば僕は会社で孤立していた。

気がつけば、僕はみんなにとって厄介者になっていた。厄介で関わり合いたくない人として見られ、だれも僕を人間として理解しようとしてはくれなかった。
新規事業立ち上げ後、グループ会社の中核事業の取締役に就任することなるが状況は変わらないどころか悪化をしていった。

「会社のために」となんとか自分を抑圧して従おうとしても、どうしてもそれができなかった。一人ひとりの人間が人として尊重されず、会社というシステムが優先されているように感じ、どうしても従うことができなかった。外の世界の価値観への適合を繰り返した私が出会った、唯一合わせられないものが義父の会社だというのは皮肉な話だ。

しかし、同時にこの体験が、人が人として尊重されるということが、私の本当に譲れないものであると教えてくれた体験であったとも思える。
当然のように、会社の考えに迎合できない自分の社内評価は目に見えて堕ちていき、僕に跡取りを期待をする人はいなくなった。
評価を上げることは難しいけれど、下げることは簡単だ。
堕ちていくのには努力も何も必要ないのだから。

それでも、僕は会社を辞めなかった。
結婚をして二人の息子が生まれ妻の両親と同居をしていた僕にとって、会社を辞めることは幸せな家族を壊すことだった。
妻も会社経営に関わり、その会社の業績は順調に推移していた。子供も元気に成長をしている中、僕が会社を辞めることは、自分勝手に幸せな家族を壊すことになると思っていた。
だから、だれにも人間として見られない悲しみとだれにもわかられない絶望を押し殺し、
「僕が自分勝手に刃向かっているだけで、僕がおかしいだけじゃないか」
「僕は家族の幸せのために生きればいい」
と自分を責め、自分を麻痺させ、会社にい続け、家族を支えるしかなかった。
僕がそんな状態であることは、妻を悲しい思いにさせるし、自分の親にも申し訳ないと思い、僕のその苦しみはだれにも明かされることもなかった。
妻には、自分のせいでこんなさせていると思わせたくなかった。
自分の親には、僕は幸せな結婚生活を送っていると信じさせたかった。

会社にい続け、家族を支えるしかなかった。それは本当だっただろうか。
それは本当ではない。僕は、自分を犠牲にしてでも会社に居場所をつくる選択していたのだ。本当には、僕は「家族から見放されしまう」ことが恐かっだだけだ。その痛みを恐れ、無自覚に「家族のために」と自己犠牲と滅私奉公を正当化していただけだ。そして、妻や自分の親を不快にするという自分の不快を恐れて、自分のありのままの姿を明かすことさえできなかったのだ。
僕を動かしていたのは「ありのままの自分では受け入れられない」「僕はわかってもらえない」という痛みの回避。「家族だけには受け入れられて、わかってもらわなくてはならない」という恐れを感じないために、「家族のため」と自己犠牲と滅私奉公を正当化していたのだ。

僕は、自己犠牲と滅私奉公で会社にい続け、家族を支え、ありのままの姿を隠すほど「ありのままの自分では受け入れられない」「僕は誰にもわかってもらえない」という虚しさと絶望ばかりが増していったのだった。

そして、この極端な自己犠牲と滅私奉公は頚椎の重度ヘルニアが発症するまで続いた。これまで抑え込んできたものが溢れ出て体に発現したのだ。
もう、これまでのように生きるのは限界だ。
自分の中でそれだけは、はっきりと理解できていた。
心と体は連動し合うものだし、どちらかが不調であればそれはもう一方に影響する。
そんな当たり前のことに、私は日常生活が困難になるほど身体に支障をきたすまで気づかなかった。
幸い頚椎ヘルニアも様々治療で軽減されたこともあり、
「もう、我慢をやめる」
「自分の人生を生きたい」
と自分で何か行動を起こそうという気にはなっていた。

「自分はどう生きたいのか?」
「自分は何が欲しいのか?」
そんな問いが浮かぶものの、その答えは考えてもわからず、途方にくれていた。

 

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