自分の内側にすでにある自分のもたらしたい世界、そこから外側の世界を自分が生きるということ。
自分の内側にある自分のもたらしたい世界で自分が在ること。そのある世界がその人の器の中で体現されていると、その人が存在しているだけで、その世界は確かに現実にある、と皆が感じられるようになります。

他者・世界に対する要求や期待を手放し、自分で求めている世界は既に内側にあることを自覚し、望んでいる世界・生きたい世界を自分の人生で生きることで、自己完結します。
自己統合期の理解「自分はどう在りたいか?」「自分が諦めきれないこと、命をかけたいことは何か?」をとにかく真に受けて、自分は自分の人生を生きると意思で決め、まずは自分が望む世界を自分が体現します。

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体現期ストーリー

「ありのままの自分を愛する」
「自分の真実と共にある」
「あることすべてを愛する無条件の愛」

これが自分のもたらしたい世界だ。
それが僕がわかったことだった。
それを自分の内側で感じるとただ満たされる感覚があった。それは、確かに僕の内側にあった。

それを外側の世界で体験するかどうかは、自分で選ぶだけだ。
「そんなのは所詮理想だ」、「現実にはそんなものはない」と、あきらめるのは簡単だ。
でも、どうにもあきらめられない衝動が僕の内側にあった。
それは、確かにある。
そしては、僕はそれを生きるんだ。
自分の意思だけではない、何が導かれるような衝動で僕はそれを選んだ。
そんなことできるのかいう恐れや不安はなぜかあまり感じなかった。
周りがどんな環境であったとしても、僕はそれを生きる、それを体現する。
そう決めたら後は信じて、それを生きることだった。

会社の中での僕の立場はあいかわらずで、その春も厄介者を扱うような辞令が僕に降りたところだった。
僕は、だれも面倒を見ることができなくなった、バラバラになりかけている20名ほどのチームを新たにマネジメントする命を受けた。
僕は何をしたらいいかは考えなかった。とにかく「自分の真実と共にあろう」、そう思っていた。
自分にある真実を語り、相手にあることすべてを受け容れ、そしてそこにある真実から行動する。
その真実が会社にとって不都合だとしても、自分にとって受け容れ難いものだとしても、真実をあることとして認め、そこから相手と関わる。
それは、相手を尊重することでもあったが、何よりも自分を尊重することでもあった。
それをすることで、僕は自分が満たされていることを感じられた。
真実を分かち合うことで、相手と本当に繋がれた感覚があった。
真実をただあると感じること、それを分かち合うこと。それが愛だった。
それは、概念として自分の内側にあるのではなく、確かに現実としてあった。

僕がそれを生きていることで、チームのメンバーが変わっていくのが感じられた。
「ありのままの自分でいい」
そうやって感じているメンバーが増えていった。
ありのままの自分ができること表現する。そうやって、行動することで一人ひとりが安心して自分を表現し、結果を残していた。そしてお互いを認め、安心と信頼がチームに醸成されていた。

僕のもたらしたい世界、「あることすべてを愛する無条件の愛」の世界を僕は体験していた。
それを体験し、感じれば感じるほど、僕はこの世界を創り出すことに自分を懸けたいと想うようになっていた。
自分はここにいても自分は自分のもたらしたい世界を感じて生きていられる。
でも、それだけでは満たされない衝動があった。

「ありのままの自分を愛する」
「自分の真実と共にある」
「あることすべてを愛する無条件の愛」
僕が人生の前半で、このすべてを完全に欠損させて、その喪失を痛みとして体験したのは、僕がこれをこの世界にもたらすことを選んできたからではないか。

僕はそれをするために会社を辞める決心をしていた。
そして、その真実を語ることは、だれにとっても不都合だった。
妻、子供、僕の両親、妻の両親。これまで僕が自分の真実を語ってこなかっただれにとっても、僕の決断は不都合な真実だった。

それでも僕はそれを生きること選んだ。
それが自分を愛することであり、真実を分かち合うことが本当の愛だから。

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